おはようございます。
前回に引き続き田園調布からグランドプリンスホテル高輪を目指して歩いていきます。
<田園調布駅>
まずは田園調布駅から北に進んで突き当りにある六間通りを進んでいきます。
六間通りの六間は道幅のことらしいです。
<六間通り・田園調布坂上バス停付近>
「田園調布本町」の交差点までやってきました。
<田園調布本町>
このあとは都道2号中原街道を北に進んでいくのですがせっかくなので150mほど足を伸ばして旧中原街道へ進みます。
<桜坂>
桜坂へとやってきました。
名板の横には由来が記されています。
この桜坂は、旧中原街道の切通しで、昔は沼部大坂といい、勾配のきつい坂で、通行などは大変であったという。今ではゆるい傾斜道となっているが、坂の西側に旧中原街道のおもかげを残している。坂名は両側に植えられた桜に因む。
この桜坂は有名な恋歌があります。
福山雅治氏は自身がこの近くに住んでいたことからこの場所をモデルに『桜坂』を書いたのだそう。
桜坂を下った先にあるのは、前回の記事でも触れた丸子の渡し。新中原街道が完成するまではつながるメインストリートだったとあって桜坂はかなり立派な切通しです。
桜坂を背に旧中原街道を北に進んでいくと、環八の下で中原街道新道と合流。引き続き中原街道を北に進んでいきます。
<田園調布警察前交差点>
しばらく進んでいくと、先人一行が明かりを頼りに上った横断歩道があるはずなのですが……
どうやらすでに撤去されているそうで、探してみたもののその場では場所を特定できませんでした。
どうやらアルプスアルパイン本社前の交差点で、横断歩道だけでなく目の前の建物群も建て替わっています。
2009年のGoogle MAPストリートビューではその場所を確認することができます。
この通り、やけに坂を登ったり下りたりするのですが、この辺りは武蔵野台地の先端にあって、海面下降による陸地のため、地盤が柔らかく水の浸食を受け、かなり入り組んだ地形を形成しています。
雪ケ谷からはしばらく下り坂です。
下るということはその先には川があるということ。
というわけで呑川(のみがわ)にたどり着きました。
<石川橋脇の柳の木>
川の脇には立派な柳の木と石橋供養塔があります。
<石橋供養塔>
呑川を隔てた先の字名、石川は、『角川日本地名大辞典』に下記の記載がありました。
呑川の通称石川にちなむという(新編武蔵)。
新編武蔵風土記稿を参照すると呑川は下袋村、東大森村・西大森村・北大森村、北鎌田村、御薗村、堤方村など下流域で記載が見られ、石川は石川村や池上村付近で記載が見えます。
さて、下りきったということは今度は上り坂ですね。
この台地は荏原台(えばらだい)とも言います。なお呑川手前の台地は久が原台(くがはらだい)でした。
エバラと言ったら焼き肉のタレですね。
これもまたこの地由来の社名です。
荏原台を下ると洗足池(せんぞくいけ)が見えてきます。
<洗足池>
洗足池は日蓮が足を洗ったという言い伝えからこの名がついたといいます。
この池のほとりには立派な神社やお寺、太鼓橋、勝海舟の墓など多くの見どころがあるのですが、見て回るのは昼に来た時にしましょうか。
東京都道318号環状七号線、通称環七通りを越えるといよいよ品川区です。
<環七通り下>
通りがかりの回転寿司で補給していきます。
<魚屋路>
魚屋路はすかいらーく系列のチェーン店でこの旗の台店は2011年オープンとのこと。
オープン前はジョナサンがありました。
再び歩いていきます。
途中昭和大病院の脇の道に目を引かれました。立会(たちあい)道路。なんだか不思議な響きですが、この道の下には、暗渠化された立会川が流れています。
<立会道路>
立会川の名前の由来は不詳です。『新編武蔵風土記稿』にはいくつか説はあるもののどれも説得力に欠けるようなものばかりです。
立會川
昔上杉北條戦争の頃此地にて合戦ありしゆへ立會の名起これりと按る大永年中品川の前高輪の原にて上杉朝興の兵と北條氏綱の勢掛合せしこと小田原記等の書に見えたり
(※略)
又云昔此處に市立て野菜を賣買せしに人々つとひて互いに會合せし地なれは立會の名は起りしとかく種々の浮説のみにて皆證跡もなけれはうけかたき説なり
(※略)
其始は瀧間川と唱へしを後に誤り唱へてたちあひ川と稱せしにあらすや今土人に問へはたつち川なと答ふるもありもし然らは今中延村にて川の名なきは其唱を失せしならんされと此考もさせる證あるにあらされは牽強に濟る事知へからす
また出所は分かりませんが大井にあった鈴ヶ森処刑場と絡めた由来説もあります。
※おそらく弘化元年(1844年)作成の『東都近郊図』に”立會橋ヲハヤ川バシトモ又ナミダバシトモ云”から来ているのではないかと
しばらく歩いていくと、今度は祠を見つけました。
<木霊稲荷>
その裏手には中原街道高札場跡があります。
<中原街道高札場跡>
さらに道向かいには庚申塔もあります。
<旗の台一丁目石造庚申供養塔>
村の堺で主要街道の筋ということでこの場所に庚申塔や高札場が置かれたということでしょうか。
再び歩いて500mほど、バーミヤンの階段に「平塚の碑」の案内板がありました。
矢印の方を向いても、住宅ばかりのように思えますが、家の間を入ってみると、スリムな鳥居を見つけることができました。
<平塚の碑>
案内板にかかれた伝承によると、
新羅三郎源義光は奥州からのからの帰途、この地において夜盗に襲われ多数の配下を失った。その霊を祀ったのが、この塚の由来とされている。
との事。武士を狙った夜盗など随分物騒な話です。
確か「品川区史料(十三)平塚の地名」だったか、出典は忘れましたが、この辺りにはもともと沢山塚があって、この塚は平たかったので平塚と呼ばれたとか、整地のために塚を取り壊したところ、沢山の武具や武器が出てきたという伝承があったはずです。
どこまで本当か分かりませんが、戦場の伝承が無い土地の塚から沢山の武器が出てきたら確かに野盗と考えるのも自然かも。
中世以降の戦なら史料として残っていそうだし、じゃあ平安時代か。となったのかな。
平安時代でも歌は詠まれていそうですけどね。
平塚橋交差点を越えると旧中原街道の分岐にさしかかります。
私は旧道と言う言葉に弱いんですよね。
というわけで旧道を歩きます。
旧道には立派な地蔵堂があります。
<戸越地蔵尊>
それからほどなく左手に星薬科大学。
しばらく進んでいくと今度は右手に地蔵など。
<旧中原街道供養塔群>
そして今度は左手に子別れ地蔵。
<子別れ地蔵>
首都高2号下で旧中原街道は途切れるため、中原街道新道にもどり横断歩道を渡っていきます。
信号を渡ってすぐの中原口交差点で、国道1号が交差しています。
<中原口交差点>
どちらへ行っても五反田駅へは行きますが、陸橋を渡って都道を進むことにしました。
大崎橋で目黒川を渡ります。
この大崎橋は文化2年(1805年)作成の『江戸御場絵図-目黒筋御場絵図(めぐろすじごじょうえず)』には相州ハシとして登場しています。
相州街道(中原街道)を通る橋だから相州橋なんですかね。
目黒川について、「品川観光協会」の案内などによると、河口付近の河川名を古くは品川と言っていたようです。
目黒川を渡りJR線のガードを抜けたところ。
<五反田駅前>
この後はどの様な道を進んだのか分からずとりあえず、国道1号沿いに歩く事にしました。
五反田駅から高輪方面に400mほど進んだところにある雉子神社はビルをコの字にくり抜いたように立つ見た目が面白い神社です。
<雉子神社>
古くは荏原宮と云い、文明年中には大鳥明神、山神の社とも称す。慶長年間に徳川三代将軍家光公がこの地に鷹狩りに来られた時、一羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に詣でられ、まことに奇瑞であると、「以後雉子宮と称すべし」とのお言葉があってから、神威愈々赫々として江戸社寺名所にその名を連ねた。
雉子神社からさらに400mほど歩いたところに高輪台駅。
<高輪台駅>
高輪台駅を超えた先の七差路を東に入っていきます。
差路を入ると、北白川宮邸跡に沿った二本榎通りに突き当たるので北に迂回していきます。
二本榎通りはその名の通りこの道沿いにかつてあった上行寺門前にあった二本の大きな榎の木に由来しています。
この二本榎通りは江戸時代、旧東海道が整備される前の東海道とも言われており、榎の木は道しるべにもなっていたそう。
北白川宮邸跡の敷地の隣に立派な門構えがありますが、こちらは味の素創業者の邸宅があった場所。今は味の素の研修センターになっています。
高輪研修センター物語 | 味の素グループの歩み | 味の素グループ
宮邸跡と比べれば小さいような気もしますが、歩いてみるとやっぱり大きいですね。
立派な塀を横目に見つつ歩いていくと……本日の目的地、グランドプリンスホテル高輪に到着です!
<グランドプリンスホテル高輪>
お疲れさまでした!
およそ10kmの行程でした。
出典『国土地理院』
羽田空港から累算すると27km。大泉さんたちは1日で廻った訳ですからそりゃあ足も痛くなりますね。
旧竹田邸を横目に見つつ、さくら坂を下って品川駅へ。
次回はグランドプリンスホテル高輪から浅草を目指していきます。
*1:カタカナをひらがなに置き換えています