ゆるく歩く

人の軌跡をたどる旅

東京ウォーカーナイト②矢口の渡から田園調布

中世多摩川右岸をめぐる

おはようございます。

東京ウォーカーナイト、第二夜。

前回田園調布まで辿り着けなかったことを反省して本日は早めの出発です。

yuruku-walk.hatenablog.jp

 

前回の終着点となった「矢口の渡し跡」に行く前に、この渡しを有名にした人物を拝みに行きましょう。

武蔵新田駅南口>f:id:kame-nagare:20240828211237j:image

 

<新田神社>f:id:kame-nagare:20240827215110j:image

新田(にった)神社は南北朝時代に矢口の渡しで謀殺された新田義興(にったよしおき)の怨霊を鎮め祀るために作られた神社です。

新田義興南朝を代表する武将、新田義貞の次男になります。

 

社伝を掻い摘んで説明すると、

北朝足利基氏畠山国清は義興襲撃を企てます。
竹沢右京亮(うきょうのすけ)と江戸遠江守(とおとうみのかみ)らは、女性をダシに義興へ近づき、矢口の渡しに誘い出しました。
沈む船、両岸から射られる矢、騙されたことに気付いた義興は自害し、13名の従者も共に矢口の渡しで最期を遂げました。
その年、謀殺へ協力した渡し守や江戸遠江守が事故死。
さらに、足利基氏入間川領内や矢口の渡し付近での落雷が相次いだことから、落雷は義興の怨念だということになって、義興の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、「新田大明神」となったのだといいます。

新田神社について | 新田神社

 

社伝にある墳墓は境内の内部に残されています。

<御塚>f:id:kame-nagare:20240827215134j:image

案内板には遺体を埋葬したと書かれています。遺髪塚じゃないんですね。

 

ちなみに新田神社の南には義興と共に謀殺された部下10人を祀る「十寄(とよせ)神社(十騎(じっき)神社)」があり、北には渡し守の弔いの地蔵堂(矢口ノ渡頓兵衛地蔵尊堂)があります。

面白いのが、地図を見ると「矢口ノ渡頓兵衛地蔵尊堂」「新田神社」「十寄神社」は同崖線上に位置しており、それが地区の境界にもなっているんですよね。

1896~1906年の地図をみると丁度谷間のあたりに「根岸」「河原」「曽根分」という地名が乗っていたりもして、当時の川のほとりに建てられたのかもしれません。

 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成

https://ktgis.net/kjmapw/index.html

というわけで、新田神社から南に下り十寄神社へとやってきました。

<十寄神社>f:id:kame-nagare:20240827215251j:imagef:id:kame-nagare:20240827215359j:image

小さいですが「江戸名所図会」にも記載されている神社で、境内裏手には新田神社と同じく塚があったようです。

由緒によると下記11名が祀られています。

新田義興
世良田義周(せらだよしちか)、
井弾正左衛門(いのだんじょうざえもん)(井伊直秀(いいなおひで))、
大嶋義遠(おおしまよしとお)、
由良兵庫助(ゆらひょうごのすけ)、
由良新左衛門(ゆらしんざえもん)、
進藤孫六左衛門(しんどうまごろくざえもん)、
壱岐権守(さかいいきごんのかみ)、
土肥(土肥三郎左衛門(どいさぶろうざえもん))、
南瀬口(南瀬口六郎(なせぐちろくろう))、
市河(市河五郎(いちかわごろう))。

 

ちなみに太平記三十三巻によると従者は十三人らしいです。

世良田右馬助、井彈正忠、大島周防守、土肥三郎佐衞門、市河五郎、由良兵庫助、同新左衞門尉、南瀬口六郎僅に十三人を打連て、

永井一孝 [校]『太平記』下,有朋堂書店,昭2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1223293 (参照 2024-08-26)

 

隣のセブンイレブンブドウ糖も補充し、現在の矢口の渡し跡へ向かっていきます。

セブンイレブンを出てすぐの五叉路は、東奥方向に入っていきます。

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西側二本が下り坂になっています。

西側は前述の「曽根分」に該当する場所。曽根は河川氾濫における自然堤防を意味したり、小石の多いやせた荒地に付く地名です。

なお東側は古市場(ふるいちば)。多摩川を渡った先の神奈川県にも同じ地名がありますが、川の流れが変わって集落が分断されたとかそんな話な気がします。

道なりに進んでいくと東八幡神社の脇に出て、現在の矢口の渡し跡へと戻ってきました。

<矢口の渡し跡>f:id:kame-nagare:20240827215751j:imagef:id:kame-nagare:20240827215834j:image

そういえば前述の「江戸名所図会」十騎社の項には矢口は神奈川県の矢向(やこう)とセットで日本武尊東夷征伐に由来した地名だと書かれていました。

日本武尊東夷征伐(やまとたけるとうわせいばつ)の時 爰(こゝ)にて矢合(やあは)せし給ひし旧跡(きゅうせき)なりという 矢口の地名も此事(このこと)に六郷(ろくこう)の川を隔てゝ稲毛の地に矢向(やむけ)と云(いふ)邑名(いうみやう)あり 是も其時の矢の向かひたる地故にいふとなり

松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[4],須原屋伊八[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2559043 (参照 2024-08-25)

郷川は近世の記録に見られる多摩川下流域の名称ですね。

平安時代にいくと丸子付近は「石瀬河(いわせがわ)」とも呼ばれていたみたいです。

 

ちなみに、14世紀の成立とみられる神明鏡には丹波河と記載されていました。

文三年九月十九日新田兵衛佐義興武州丹波河ノ船中ニテ自害

『神明鏡 2巻』[2],写,天文9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2553366 (参照 2024-08-28)

「たばがわ」は多摩川の上流・中流の呼び名として古くから伝わっているものです。

多摩川全域を「たば川」と呼んだのか、神明鏡が間違った解釈をしているのか、そもそも矢口の渡しがこの場所では無く、候補地の「矢野口」の方だった可能性もあります。

……そろそろ出発しましょうか。

 

堤防を田園調布に向かって歩いていくと多摩川小学校の前にどことなく見覚えのある歩道橋があります。

多摩川小前歩道橋>f:id:kame-nagare:20240828211952j:image

左奥には小さく水門が見えていますが、あれは下丸子の地区境界に面して流れていた北古川と新田川の多摩川合流地点です(どちらも大部分が暗渠化されています)。

つまりそこからは下丸子地区。

丸子も古市場同様に東京側にも神奈川にも存在する地名です。

下丸子は平川家文書によると昔は武蔵野国荏原郡ではなく武州橘樹(たちばな)郡に所属していたといいます。つまり多摩川の流れの変遷でこの丸子も集落が分断された可能性があると……

 

ガス橋を越えると対岸に武蔵小杉のマンション群が見えてきます。

ガス橋f:id:kame-nagare:20240828212026j:image

ガス橋下>
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<武蔵小杉のタワマン群>f:id:kame-nagare:20240828212058j:image

いい感じに日が傾いてきました。

ゴルフ練習場の防護ネットをくぐります。

多摩川ゴルフ練習場>f:id:kame-nagare:20240828212131j:image

東海道新幹線横須賀線多摩川橋梁に目を引かれます。

多摩川橋梁と横須賀線f:id:kame-nagare:20240828212158j:image

多摩川橋梁を潜った先にあるのは「丸子(まるこ)の渡し跡」。

<丸子の渡し跡>

吾妻鏡』によると

治承四年十一月――

十日、戊午、以武藏國丸子荘賜葛西三郎淸重

国書刊行会 編『吾妻鏡 : 吉川本 第1-3』吉川本 上卷,国書刊行会,1915. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920980 (参照 2024-08-25)

とあり、鎌倉時代にはすでに地名として存在していたことがわかります。

この渡しが通る中原街道は江戸時代に整備された道路ですが、近隣の伝承やその直線的な形状から古代官道の筋だったのでは?という説もある道です。

丸子はどこも低地で、堤でも築かなければ川のご機嫌で流れがコロコロ変わる大変な土地を恩賞と言えるのか怪しいですが、重要な道筋と言われると管理側のモチベーションにはなりそう。

葛西氏は元々葛飾の辺りで力を持っていた武将なので大きな河川に隣接した低地の管理を任せられる適任の人材だったのでしょう。

<丸子の渡し跡掲示案内板>

なおこの丸子荘は「まりこのしょう」と読みます。

丸子由来については諸説あり、渡し守を管理する丸子部(まりこべ)という官職を由来とする説や*1、渡し守子の「もりこ」がなまって「まるこ」になったという説(河川敷の丸子の渡し跡掲示案内板より)が唱えられています。

 

現在の中原街道の渡河点の丸子橋を越え、この先田園調布へと入っていきますが、「丸子川(六郷用水)」の多摩川合流口の脇から上がって多摩川浅間神社へ寄り道していきます。

多摩川浅間神社f:id:kame-nagare:20240828231000j:image

こちらの神社は北条政子の縁の神社です。

由緒を要約すると、

文治年間(1185~1190年)のこと、豊島郡滝野川松崎に出陣した頼朝の身を案じて追いかけて来た政子ですが、草鞋の傷が痛んでこの地で療養する事にしました。滞在中に亀甲山(かめのこやま)へ登ってみると、富士山がじつに鮮やかに見えたので政子は夫の武運を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てたといいます。この事にあやかり村人たちがこの像を「富士浅間大菩薩」と呼んで尊崇したことからこの神社は起こったと言う事です。

<多摩浅間神社由緒>f:id:kame-nagare:20240828231545j:image

滝野川松崎は、源平盛衰記の二十三巻「源氏隅田河原に陣を取る事」の段にあり、陣を取ったとされる瀧野川松橋のことと思われます。

丸子の領主であった葛西三郎もセットで出てくるので、この地名を引用したのでしょうか。

吾妻鏡には石橋山の戦いで、走湯山伊豆山神社)へ向かったと記されており、幼い大姫もいるはずなので普通ならあまり無茶な遠出はしないと思いますが、政子は規格外な女性ですからね。

多摩川浅間神社からの景色>f:id:kame-nagare:20240831103936j:image

天気が良ければ画像の左見切れるくらいの位置に今でも富士山が見えるらしいです。

そして右側のほう、こちらも見えていませんが古墳群が連なっています。

 

折角なので、さらに寄り道を。

<亀甲山古墳の前の水生園>

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<亀甲山古墳>f:id:kame-nagare:20240831104017j:imagef:id:kame-nagare:20240831104034j:image

看板の奥が亀甲山の墳墓です。

多摩川浅間神社の社伝通りなら、政子はここに登ったと言う事になります。

続く多摩川台古墳群を巡礼しながら、再び多摩川の河川敷へと降りていきます。

<元巨人軍グラウンド>f:id:kame-nagare:20240906103038j:image
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ここが先人達の多摩川最終地点。この後は蓬莱(ほうらい)公園を経由し田園調布の街へと進んでいきます。

 

折角なら宝莱山古墳の上を通って行こうかと思いましたが、夜間は通行出来ないので回り道です。

 

宝莱山と言うと、やっぱり中国の蓬莱山が元ネタでしょうか。

列子 湯問 第五篇」には、その山々になる果実を食べれば不老不死となり、そこに住む人はみな仙人のような人々で、この五山が離れないように15匹の巨大亀を用意し6万年サイクル3匹体制で代わり替わり背負わせたという一節として登場します。

其中有五山焉:一曰岱輿,二曰員嶠,三曰方壺,四曰瀛洲,五曰蓬萊。其山高下周旋三萬里,其頂平處九千里。山之中閒相去七萬里,以為鄰居焉。其上臺觀皆金玉,其上禽獸皆純縞。珠玕之樹皆叢生,華實皆有滋味,食之皆不老不死。所居之人皆仙聖之種;一日一夕飛相往來者,不可數焉。而五山之根,无所連箸,常隨潮波上下往還,不得蹔峙焉。仙聖毒之,訴之於帝。帝恐流於西極,失群仙聖之居,乃命禺彊使巨鼇十五舉首而戴之。迭為三番,六萬歲一交焉。五山始峙而不動。

https://ctext.org/liezi/tang-wen/zh

蓬莱山と亀がセットで語られることはしばしばあるようでして、ここの宝莱山と亀甲山もその類のように思います。

 

<宝莱公園>f:id:kame-nagare:20240906103333j:image
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えぐい坂を上って降りてきました。

田園調布の駅まではまた上って下るみたいです……

この後一行は宝莱公園沿いの東の道を進み銀杏並木道へと入っていきます。

<田園調布の銀杏並木>f:id:kame-nagare:20240906103411j:image

田園調布駅f:id:kame-nagare:20240906103436j:image
銀杏並木を抜けて田園調布駅へとやってきました。

田園調布の地名の由来について読売の記事によると、

渋沢の談話などをまとめた「青淵回顧録」(1927年、青淵回顧録刊行會)には、「人間は到底自然なしには生活出來るものではない」「私は東京が非常な勢ひを以て膨張して行くのを見るにつけても、我が國にも田園都市のやうなものを造つて、都會生活の缺陥けっかんを幾分でも補ふ様にしたいものだと考へて居つた」とある。

www.yomiuri.co.jp

田園都市は当時の翻訳で、Garden Cityを指す言葉。

今なら、ガーデンシティ調布とでも名付けるのでしょう。

調布については多分、

百名山とか、三大祭みたいな感じの、江戸時代頃に広まった「六玉川(むたまがわ)」が発祥元なんじゃないかと思っています。

推測に推測を重ねているので、話半分で読んで貰えればと思うのですが、

前提として、調布という地名は明治期に入るまで、国群郷里保荘市町村領藩荘といった行政区分名としての記述が見つかっていないんです。

それが明治期に入って東京の市町村名として3か所の自治体に調布という名が新たに付けられます。

それが現在の青梅市旧調布村、現在の調布市旧調布町、現在の田園調布旧調布村。

調布の由来について調べるとまず、租庸調の調として布が提供されたことから名がついたとありますが、そこを元にするとしたら、もっと全国各地に地名としてあってもいいんじゃないかと思うんですよね。特に立地としては近い神奈川側に無いのが余計に不思議で……

造語……すくなくとも近代に入るまで地名としてはまず付かない単語だったはずです。

しかし、江戸時代以降に「調布の玉川」という用語が浮世絵などで度々みられるようになります。その出所を調べていくと全国各地にある有名な六つの玉川の一つとして紹介されており、江戸時代の筝曲に「六玉川(むたまがわ)」という曲名が現れます。

作曲当時から歌詞がついていたかは定かではありませんが、後につけられた歌詞や同名の曲の歌詞をみると概ね「てづくり・たづくり」という単語が多摩川を指す単語として登場してきます。

これは、万葉集に収録されている「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき」の詩より引用したもので、ほかの六玉川も同様に有名な詩を引用しています。

手作りはてづくりあるいはたづくりと読まれるようですが、調布(たづくり)と漢字をふったのは、実際に調として布を献上したことも理由の一つなのでしょうが、織物の産地のブランド名として格をつけたかったプロモーターが江戸(東京側)にいたんじゃないでしょうか。

調布がアパレルブランドだとすると、田園調布って当時はめっちゃお洒落な名前だったんじゃないかなと思います。

 

本日はここまで。次回は田園調布から品川を目指して歩いていきます。

 出典『国土地理院

https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

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